東京地方裁判所 昭和41年(ヨ)2249号 判決 1973年8月28日
申請人
土屋保
外一八名
右十九人訴訟代理人
岸星一
同
内藤義憲
被申請人
川崎化成工業株式会社
右代表者
阿部二郎
右訴訟代理人
鎌田英次
同
松崎正躬
主文
申請人山田節彦、同石川曠、同高橋衛、同梅津実、同寺井満夫、同殿畑建治、同杵渕秀夫、同千葉緑朗、同高野竹雄、同後藤堅吾が、被申請人に対し雇傭契約上権利を有する地位を仮りに定める。
被申請人は申請人らに対し、別紙賃金目録中申請人各人名下の第三欄記載の各金員を並びに昭和四七年一一月一日以降本案判決確定に至るまで毎月二五日限り、同目録同第四欄記載の各金員をそれぞれ仮りに支払え。
右申請人らのその余の各申請をいずれも却下する。
申請人土屋保、同工藤敏明、同玉田和男、同山田忠、同磯部勝英、同高木周治、同伊藤征一、同室伏喜美夫、同山岸正幸の各申請をいずれも却下する。
申請費用は被申請人の負担とする。
事実《省略》
理由
第一申請人ら主張の申立の理由一、二の事実および<編1>同三のうち、別紙賃金目録記載<略>の申請人ら一二人を除くその余の七人の申請人らがその主張のとおりの経緯でそれぞれ会社に復帰し、現に賃金等の支払を受けていること、会社での賃金支給日が毎月二五日であることは当事者間に争いがない。
第二昭和三七年以降の労使関係
<疎明>によれば、次の事実が一応認められる
一 昭和三七年九月に行なわれた組合の役員改選で、組合の執行部は従来の会社の係長クラスを中心とする執行部から工場現場の若い労働者を中心とする執行部と変わつたが、同時に、地域、産業別の労働組合との連携を密にするようになり、同三八年二月には千鳥地区労働組合懇談会結成の中心的組合となつた。そして同三八年春の賃上げ闘争に際しては同年四月六日に、組合結成以来はじめてストライキを行ない、その後前記の如く同年七月一日合成化学産業労働組合連合(以下合化労連という)に加盟し、教育活動の強化のため組合機関紙の充実、調査活動の重視及び青婦部の活発化等を図つてきた。
二 その頃から次の事項をめぐり、会社と組合との対立関係が深められていつた。1 会社内での組合掲示物に対する手続は昭和三八年頃までは就業規則四一条により、組合が当該掲示文書につき、事前に会社宛届出を行ない、会社受付印の押捺を得て掲示板に掲示していたが同年一〇月一九日、組合の「ポラリス潜水艦寄港阻止集会」のポスターにつき、会社が右は政治活動に関する文書であるとして、右文書の掲示を就業規則四二条に準拠し不許可にしたことから、これが組合活動に対する不当な干渉であると主張する組合との間に対立状態が生じ、遂に組合は会社の重ねての警告にも拘らず昭和三九年一月二六日以降の組合の掲示あるいは配布文書の一切を会社に届出ずに掲示又は配布するに至り、会社は右掲示物を無許可であるとして、自ら撤去するようになった。2 会社は従来毎月一回社内報を発行していたが、昭和三七年一月より経費節減措置の一環として右を隔月発刊とした。しかし会社は同三八年六月、会社の実情方針その他につき機を失することなく全従業員に知らしめその理解と協力を高める必要から簡単な形式の広報ニュースを発行するのが適当であると考え、前記社内報に加え「会社ニュース」を発行することになり、以後、これに会社行事、人事、団体交渉及び労働小連絡会付議事項等の記事を掲載してきた。もっとも、時には反組合的宣伝や組合幹部の言動を批判するような記事が掲載される様な場合もあった。3 会社は、従来、業務に支障のないかぎり、必要な範囲で組合員に会社施設供与の便宜を計ってきた。その際は事前に使用日時、場所、目的参加者等を記載した文書をもつて会社に届出る建前であつたが、特に使用許可をめぐり労使間に紛糾は生じなかつた。ところが、昭和三九年頃から組合と上部団体、外部団体との接触が多くなるにつれ、会社は組合活動も多分に政治的色彩彩を帯びてきたとして組合事務所の使用、会議室の借用外来者に対する取扱い等につき、従来よりも許可制の運用をきびしくする様になり、就業時間後の組合事務所における執行委員会等の会合も無届による無断使用であるとして許可を求めるように要請し、組合への外来者も機密保持、安全衛生の立場からという理由で許可がなければ所定の面会所で面会し、組合事務所への立入りを禁じ又部外者の組合事務所以外の会社内立入りによる管理上の弊害を考慮したとの理由で会議室等の貸与も従業員以外の者との共同会合には貸与しないと通告するに至つた。4 会社は従前組合費、労働金庫関係の積立金等の組合費をチェック、オフの対象としていたが、昭和三九年の昇給交渉において、組合が行なつたストライキの賃金プールのための控除を、その頃組合が会社に申し入れたのに対し、会社は組合提示の算式による計算事務は会社の経理能力からいつて堪えがたいものとして右申し入れを拒否した。しかし、最終的には右チェックオフを実施した。5 昭和三九年七月一一日、会社は会社構内で無許可で文書配布を行なつた組合員殿畑建治、野沢豊光、及び右行為を指令した山田忠の三名に対し、就業規則四一条違反の行為であるとして、いずれも譴責処分にしたところ、組合は労働組合と会社は対等である。しかるに会社が文書の配布を行うに当り、組合に届出て許可を受けたことは一度もない等の見解を組合報に掲載するといつた状況であつた。
第三就業時間内組合活動に関する協定の推移
一 会社、組合間における組合役員の就業時間内組合活動に関する協定が昭和三六年九月一日に成立し、以後三九年三月末日迄四回の協定更新を行なつたこと、その内容が申請人ら主張(前記第四、二(三)1<編2>)のとおりであることは当事者間に争いない。
二 ところで、<疎明>によれば次の事実が一応認められる。1 右協定の第三回(昭和三七年一〇年一日〜同三八年三月三一日)の更改については、予め五〇〇時間の組合活動の時間枠が協定されていたが、結局右期間中右組合活動のため消費した時間は右五〇〇時間を一四三時間超過する結果となつた。もつとも、右超過部分の取扱いについては、特に会社から承認しないとの強硬な通告があつた訳ではなく期間満了前の同三八年二月一三日の労働小連絡会で弾力的に行なうことが了解された。2 次いで第四回(昭和三八年四月一日〜同年九月三〇日)協定では、右の実態を考慮し、協定時間枠を一、〇〇〇時間とし、特段の事由により右枠を越えると予想される場合は、事前に組合と会社間で協議することとした。しかし組合は同年八月一三日には既にその枠を費消し、更に三〇〇時間の追認を申入れざるを得なかつた(右期間中、三七九時間超過。)。当時会社内部では、組合が協定の時間の枠を勝手に超過して使用していることにつき、強硬な措置をとるべきであるとの論があり、会社が同三八年八月二四日の労働小連絡会の席上協定時間を越えての無断使用は中止すべきであるとの発言をなしたこともあつたが、一方組合の健全な発展を助けるため早期に専従制へ移行する様組合と話し合いをすゝめ、不当な離席のない様是正してゆく方が穏当であるとの論もあり、結局時間内組合活動については、労働協約小委員会で具体的交渉をすゝめるという事になつた。その間前記事実上超過した組合活動時間については、その申請(申請手続等については後記第四認定のとおり)は、何ら会社により少くとも表面上は問題とされることなく受理された。3 会社はこの様な協定時間枠の使用実態に鑑み、同三八年九月頃から組合に対し、特定の専従者をおくことについてしばしば提案したが、組合は人件費の負担能力がない等を理由にこれを拒否し、結局昭和三八年一一月一日、前記内容の第五回(昭和三八年一〇月一日〜同三九年三月三一日)協定が締結された。その際右協定に付帯し、「委員長は午前を、書記長は午後を就労する。執行委員長、書記長が止むを得ず就業時間内にに組合活動をする場合は、申請手続を行なつた上で協定時間を使用することができる。時間枠一〇〇〇時間は、今回の協定をもつて限度であるから、超えない様遵守する。この協定は組合専従制実施を前提とする暫定協定である。」旨の了解がなされた。
三 <疎明>によれば、次の事実が一応認められる。1 昭和三九年三月二三日、前記第五回協定の期間満了に伴なう措置につき組合は専従制については積極的に取り組みたいが、半年間の実績をみて大会決定をみないといけないので、それまで暫定的に今のまゝとしたいとの基本的な考え方を述べたのに対し、あくまで専従制移行の立場をとる会社としては、その際特に具体的な態度表明をせず検討するという事で、そのまゝ右協定は期間満了を迎え失効した。2 同年四月一日から同年五月一三日までの間、執行委員の大部分は指名ストに入つていたが、翌五月一四日終業時間後に当時組合副執行委員長であつた室伏喜美夫から会社に対し電話で同日および翌一五日の欠勤申出がなされた際、会社は過去における組合の協定無視の実績に照らし、四月一日以降組合と同趣旨の協定を締結する意思はなく、同日以降の時間内組合活動は、組合からの事前申請により、個別に許可、不許可を決定する旨通告し、右室伏の申請は五月一四日の分は事後申請であり、同日一五日の分は文書による正規の届出なく而も終業時間後で実質的に所属上長と許否決定について協議のできないものであるとして許可の扱いをしなかつた。もつとも組合は、その後も従前の協定の趣旨に則り、従前の手続きにより組合業務を行なわせていた(これに対する会社の態度は後記第四、二のとおりである。)。3 その後昭和三九年七月一八日の会社組合間での事務折衝の折、申請人土屋の欠勤申請に対し、会社が不許可としたこと、専従制をめぐる会社、組合間の交渉の経緯、その間の時間内組合活動のための欠勤に対する会社の態度等については、いずれも申請人ら主張(第四、二、(二)、1、(3)乃至(5)<編3>)のとおりである。
第四就業時間内の組合活動についての申請手続
<疎明>によれば、次の事実が一応認められる。
一 前記協定が失効するまでの就業時間内組合活動の申請手続の実態は、申請人ら主張(第四、二、(二)、2、(1)<編4>)のとおりである。
二 協定失効後、会社は専従制の提案及び交渉と並行して従来のようなルーズな許抗可申請の手続を改めていく態度をとつてきたが、組合の態度は協定失効前とあまり変らず、前記第三、三、2の如く、会社が組合に対し、事前申請を強く呼びかけた昭和三九年五月以降は、会社の態度に反発する如く組合の申請書にも「組合業務」とのみ記載されることが多くなり、しかもその半分以上が事後という実態であつた。会社は申請について組合から具体的な説明がない場合及び事後申請についてはいずれも不許可扱いにしその都度組合に注意、連絡していたが、同年一〇月以降は、従前の口頭による不許可の通知にかえ、申請書に不許可印を押印して二部とも組合に返却するという手続をとり、会社の意思を強く印象づける措置を講ずる一方、右不許可の場合には組合活動による場合と区別し、一般の無届欠勤等と同様賃金カットを行なわず、本人の自覚にも期待した、
第五申請人土屋保に対する懲戒解雇
一 会社は、土屋を昭和四〇年一〇月一四日付で懲戒解雇し、その理由として、文書および口頭による数次の命令、指示、警告にもかかわらず、昭和三九年八月以降同年七月四日を除き翌四〇年一〇月一三日まで全く就労しなかつたこと、同三九年八月中において、八月四日、八月八日、を除き、タイム、カードを打刻せず、更に同三九年九月三日以降翌四〇年一〇月一三日まで打刻しなかつたこと、右は就業規則一〇一条、三号、五号、六号に該当する旨を掲げていることについては、当事者間に争いがない。
二 <疎明>によれば、次の事実が一応認められる。1、土屋は、昭和三一年一一月入社し、千鳥工場製造部に配属され、同部第三課の班長等を歴任し、無水フタル酸の回収作業、製造部内の作業工程の調査等に従事していた。2、土屋は、昭和三二年八月組合に加入し、同年一〇月から同三六年九月まで職場委員をし、同年一〇月から執行委員長に選ばれ、同四〇年一〇月一四日付けで懲戒解雇されたときも引続きその職にあつた。3、昭和三八年二月二一日当時は川崎工場千鳥製造第二部工程係に転属し、無水フタル酸製造の際の排気ガス処理対策の仕事に従事しいたが、同年一〇月一日、会社は、同人が執行委員長であり、地域労組の役職にもついている上、合化労連にも加盟したとなると、工程係の仕事は無理であるとして組合と協議し、同人を、千鳥製造第二部(同年一二月二五日機構改革により千鳥製造部となる。)勤務に配転させ、製造部内作業工程の調査等の仕事に従事させた。4、土屋は、前記のとおり、昭和三八年一〇月から同三九年三月三一日までは、半専従として、午後の就労を免除されていたが、本来就労すべき午前中も無届のまま就労しないことが目立つてきたため、昭和三八年一二月、三浦工場長と高橋製造部長から、時間どおり勤務する様警告された。5、昭和三九年春斗の際の指名スト解除後の五月一四日以降、土屋はほぼ一ケ月間全く就労せずしかもその間の届を提出しなかつたため、同年六月下旬、高橋製造部長から事前許可を得た後組合活動に従事する様注意され、右無届の一ケ月間の行動記録を一覧表にして提出したことがあつた。6、昭和三九年七月一三日、高橋製造部長は、土屋に対し、製造部内の刺戟臭ガスの防止並びに環境改善対策として、工場内を巡視してガス洩れ個所の点検、ガス洗浄装置の稼働状況の点検を行ないその結果を報告する様に命じたが、同人は右パトロールの業務命令に従わなかつた。そのため会社は同人に対し、同年八月一日及び一〇月六日付各三浦工場長名の内容証明郵便により、「就業時間中は業務に従事すべきこと、止むを得ず組合活動をするときは、所定の申請を行なうこと及びタイムカードの打刻をすること。」という注意とともに、なお違反事実を継続する場合は、就業規則に基づき厳重処分するとの警告をなした。しかるに土屋が前記パトロール業務についたのは同三九年八月四日の一日だけであり、以後就労は同人の解雇まで続いた。7、もつとも前記専従制に関する協定の交渉が決裂してから、組合は昭和四〇年一〇月六日、土屋を業務に専念させることを決議し、一方土屋は同日右決議の前にあらかじめ会社に対し就労したい旨申し出たが、会社からは何らの意思表示もなかつた。同月七日、土屋は、阿部労務部長代理と逢つた際、同人に対しても就労の意思を表明し、翌八日午前には直属の上司である高橋製造部長宛電話したところ同人が不在のため連絡がとれず、同日午後、再度同人宛電話連絡したが、既に同人が帰宅して了つたためそのままとなり、以後本件解雇まで土屋は会社と連絡をとることもなかつた。
三 ところで前項掲記の各疎明によれば、土屋の就業時間内組合活動に関する申請手続の実情は、昭和三九年八月一日以降解雇に至るまでの間でも、事後届出が二〇件、事由として単に組合業務とのみ記したもの三四件、申請の一部しか事由の記載のないもの七件、一週間又は一ケ月等五日以上の期間につき一括申請したもの二〇件といつた如く、申請要件を欠くものが多く、そのためその大部分が不許可とされたことが一応認められる。
四 <疎明>によれば、次の事実が一応認められる。1、会社の従業員が、出退社に際してタイムカードを打刻することは、欠勤その他会社が例外として認めた場合を除き、原則としてすべて義務づけられていた。なお従業員が就業時間中に公用、私用を問わず外出(早退を含む)する場合には、所属上長の許可を受けた外出届を守衛所に届けることとなつており、その際私用早退の場合には打刻し、公用早退の場合には打刻せず出門する方法が一般的であつた。2、会社はタイムカードの打刻は賃金計算を行なうための基礎資料となるとの立場から、昭和三九年一〇月の労働小連絡会の席上において、組合に対し、組合活動の時でもタイムカードは打刻する様主張し、土屋に対しても、前記のとおり同三九年八月、同一〇月の二回にわたり、文書で打刻を命じ、さらに入出門の都度守衛長より打刻を指示させたが、同人は同三九年八月以降同月四日、八日、同年九月二日の合計三回を除き解雇に至るまで全く打刻しなかつた。3、もつとも組合業務のための入出門については、通常所属上長の許可を受けた外出届を守衛所に届け打刻しないという前記公用早退の場合にそつた手続がなされていたが必ずしも一定のルールが定められていた訳ではなかつた。
第六会社の経営事情と人員整理について
一 会社の経営事情が昭和三九年下期から悪化し、遂に同四〇年下期における負債総額が約七〇億円に達するに至つたこと、会社は、昭和四〇年一二月の取締役会で、会社再建整備方針の大綱を決め、同四一年二月一日組合に対して経営説明会は開き、不採算部門の切り捨て、組織職制の簡素化と勤務制度の是正、人員の適正化、諸経費の徹底的削減等の方針を示して会社再建のための協力を求めたこと、以後二日から同月二五日まで右方策をめぐり一〇回の団体交渉が行なわれたことはいずれも当事者間に争いがない。
二 <疎明>によれば、一応次の事実が認められる。1、会社は前記経営説明会において、組合に対し、「昭和四一年一月三一日現在の会社の総従業員数一、〇三六人を、経済計算上は六〇〇人でないと採算に乗らないが、諸般の事情によつて原則として八〇〇人に縮減したい。ついては社員を出来るだけ残したいので、本年三月末に契約の切れる外注作業員約二〇〇人に辞めて貰い、社員の配置転換、その他希望退職を募集することによつて人員の適正化を図りたい。」と概要を説明した、なお、この時点で既に会社は、不採算部門の人員切拾後の総人員を八〇〇人以下とすること、再建実施後の新組織、交替勤務制度の改正案の作成、更に希望退職の募集基準の設定も完了していた。右二〇〇人の外注作業員とは、会社が直接右下請作業員と雇用契約を締結しているものではなく、一年契約で下請業者と仕事別に一括して下請作業料を決めて契約しているものであつて、会社においてはその実動人員すら把握していないものであつて、その解約は昭和四一年二月末日までに意思表示をすれば容易に可能であつた。2、二月三日の第一回団体交渉から二月八日の第四回団体交渉にかけての双方の折衝の結果は、組合が「新機構の人員配置については、組合が職場で検討し、具体的態度を決したいので、その会社側の具体案を早急に提示して貫いたい。組合と充分に話し合いがつくまで、配置転換、新交替勤務制度への移行、希望退職の募集を行なわない様に要望する。」と主張したのに対し、会社は、「不採算部門の切り捨て、勤務制度の是正等による余剰人員については、即座に辞めさせる訳にはいかない。外注下請作業部門配置の五七人を除いた残りの下請作業部門への配置転換や、希望退職の途を開くことで、出来るだけ現在の社員の減員を防ぎたい。もつとも希望退職者が多く出れば、下請作業員も残さざるを得ない。」とその方針を表明し、新機構の組織図、新交替制度の形態を提出し、更に希望退職の募集基準の内容として、「一年以内に退職したいと考えている人、一両年中に停年退職に該当する人、他に収入源のある人、配置転換の困難な人、出勤率の悪い人(遅刻早退を含む)、身体病弱な人(但し業務上の傷病者を除く)、私傷病で休職中の人で、申し込み期間は昭和四一年二月一二日から同月二三日までとする、等々。」の方針を記載した文書を配布したが、組合が最も関心を寄せ、二月一〇日の組合総会までに提示する様要請していた、新機構にのつとつた具体的な八〇〇人の人員配置計画については、人事事項で、会社の経営に属し組合とあまりつきすゝんで協議決定する事項ではないとの立場から明示しなかつた。そして一方会社は二月九日「会社ニュース」を一般従業員に配布し、前記内容のとおり、希望退職者の募集を開始した。3、組合は、二月一〇日の総会、翌一一日の執行委員会において、「ルルギ、DA、KB、の停止による余剰人員は約五〇人に過ぎないから、会社の主張する様に二〇〇人の減員となれば、現在の体制から今後の生産を維持することは困難である。会社は具体的人員計画を早急に明らかにすべきである。」との主張をとりまとめ、これを組合報で発表した。ところで同月一二日の第五回団体交渉では、会社は組合に対し、前記希望退職募集基準を更に具体化し(即ち、一両年中に停年に達する人を、昭和四三年三月三一日までに停年に達する人とし、出勤率の悪い人を、昭和三九年一二月一六日から昭和四〇年一二月一五日までの期間において事故欠勤や無届欠勤が一〇日以上に及んだ人、但し昭和四〇年一〇月一日より同年一二月一五日までの期間の遅刻、早退は三回をもつて欠勤一日とする、等。)提示した。
これに対し組合は希望退職については応じていくが、基準枠は撤回されたい旨要求した。4、同月一四日の第六回団体交渉において、会社は、はじめて、八〇〇人の部課別人員内訳を発表し、その内訳が役員六人、社員及び外注作業員七五八人、臨時日雇一九人、出向者一七人の予定であることを明らかにするとともに、組合の主張する希望退職募集基準の撤回、及び四直三交替制実施に関する諸要求はいずれも応じられないと回答した。5、同月一六日の第七回団体交渉において、会社は組合は会社のおかれている緊急事態の理解にとぼしく、徒らに反対意見の表明と若干の質疑を重ねてきただけであり、下請作業の解約およびこれに伴う社員の配置転換については組合が反対であることが明瞭になつたとして、組合に対し、会社のおかれている現況並びに組合の意向を慎重に検討した結果下請の外注契約の打切りは見送り、基本方針の人員適正化(八〇〇人以下の人員に縮減)は、社員のみにつき行なう、又配転については希望退職が終了してから実施する」との見解を示し、「結果として八〇〇人とならなかつたら八〇〇人になる様考えざるを得ない。基準該当者には辞めて貰う様強くお願いする。」と解雇をほのめかした。これに対し組合は「組合の立場は、人員計画、作業内容、安全性を明確にし、その時点で下請けの問題を考え様と主張していたもので、下請けを解約するなとは云つていない。」と反論したが、会社はとり合わなかつた。6、同月一七日の第八回団体交渉では、組合から会社に対し、先に会社が示した、部課別人員により交替班の有給休暇や、指定休の問題、日勤者との業務の割り振りの問題等につき質問がなされたが、会社は、「配転に応じてほしいと云えば配転に反対、外注を切ると云えばそれにも反対では仕方がない。残つた人で安全にやつていく。」という態度に終始した。7、同月一九日の第九回団体交渉では、組合は、「希望退職は認めるが基準は撤回して貰いたい。基準に固執して首切りをする様になることは許せない。人員配置については、実際に作業している人に検討して貰うが、相当時間がかかると思う。配置転換は希望退職による人員減で止むを得ない配転は認める。」と主張したのに対し、会社は、「希望退職の基準は撤回の意思はない。配転についても穴うめはよいが、その他の配転は認めないと云うのは、下請の解約は反対ということを確認していると認めなればならない。」と応酬する等で交渉は実質上進展しなかつた。8、一方会社は、職制を通じ、職場において、前記希望退職募集基準に該当する社員につき、応募を勧告したり、逆に応募を撤回する様慰留したり、或は該当事項の無届欠勤を、病欠として基準非該当に工作したりといつた事例があつた。9、同月二五日の第一〇回団体交渉において、会社は、「一二日から二三日までの間、二〇〇人の希望退職者があつた。その結果、現在役員六人、社員五八四臨時、その他二六人、出向者一六人、外注作業員一九〇合計八二二人となり予定残留人員八〇〇人にはまだ達しないから、前の基準を一部変更し、同四二年九月三〇日までに停年に達する二人(非組合員)、同三九年一二月一六日から同四〇年一二月一五日までの期間欠勤日数が一三日以上ある二〇人(組合員)には、更に強く退職を勧告する。昭和四一年二月二八日正午までに応募すれば前と同じ基準の退職金を支払い、応じない場合には解雇する。それ以外の人の希望退職は受けつけない。」と通告し、交渉は打切りとなつた。
第七申請人玉田和男ら一七名に対する解雇
一 会社が昭和四一年二月二六日、前記希望退職基準該当者二二名に対し退職を勧告し、同月二八日正午までにそれに応じた者を除くその余の申請人ら(土屋、工藤を除く申請人ら一七人)に対しては、同月二八日付で、いずれも就業規則二〇条九号(前各号のほか、止むを得ない業務上の都合によるとき。)を適用して解雇したことは当事者間に争いがない。
二 <疎明>によれば、右申請人らの入社年月日、解雇時の所属、組合歴については、いずれも申請人ら主張のとおりであることが一応認められる。
第八申請人工藤敏明に対する解雇
一 同人の入社年月日、作業場所、業務内容および同人が昭和四一年二月二二日付で就業規則二〇条四号後段「出勤が著しく常ならず、注意をうけても改めないとき」により解雇されたことについては当事者間に争いがない、又前記疎甲第七〇号証によれば同人の組合歴が申請人ら主張のとおりであることが一応認められる。
二 <疎明>によれば、一応次の事実が認められる。1、同人の昭和四〇年一月以降、同四一年二月一五日までの勤怠状態は、無届欠勤五回、事故欠勤二五回、病気欠勤一二回、その他遅刻一九回、早退二回といつたありさまで、所属上長からの重なる注意にも拘らず、勤務態度は改まらなかつた。2、会社は、従来からの欠勤等の事前届出手続のルーズな運用を改め、規律の引締めを図るべく、昭和四〇年一〇月一日から勤務是正制度を設けた。右制度は欠勤休暇等についての事前申請や、止むを得ない当日休暇の当日朝の連絡方法等について、就業規則六二条、六四条所定の遵守事項を具体的に規律指導することを目的とし、その励行を期するため違反行為に対する是正措置として、無届欠勤はその都度、遅刻、早退、私用外出等については、一ケ月に三回処以上の場合について、いずれも勤務是正通知書を交付し、本人の反省を求め、右通知書が六ケ月に三回におよび且つ是正の実効のない場合には所要の人事措置をとることとした。3、同人については、四〇年一〇月二八日、一一月六日の両日無届欠勤を行なつたため、会社は、同人に対し、同一一月六日付、同八日付の各勤務是正通知により右行為につき是正の勧告をなした。更に同年一二月二日には、同一一月度における遅刻三回に対し、第三回目の是正通知をした。4、ついで昭和四一年二月一五日、同人は又無届欠勤を行なつたので翌一六日、同人の所属する塩浜製造部長鍋沢誠三が同人から事情聴取した際、同人は「欠勤が多いのは、年次有給休暇の付与日数が少ないためである。朝寝坊して遅くなつてしまつたので、いまさら会社に連絡するのも照れ臭いから、そのまま休んだ。」等と述べ反省の態度はみえなかつた。
三 そこで会社は右事実に照らし、同人に対し前記解雇通告を行なつた。
以上の各認定事実に反する疎明はいずれも採用しない。
第九申請人土屋保に対する懲戒解雇
一 タイムカード不打刻につきタイムカードの出退社に際しての打刻は、前記第五、四、認定のとおり例外的措置が認められている場合を除いては、原則として義務づけられているものであり、土屋は前記認定のとおり専従者として就労義務を全く免除されていたわけではないのであるから、右義務を免れない。組合業務による社内外の出入りの際のタイムカードの打刻の取り扱いにつき明確なルールがなかつたとしても、それを理由に会社側の再三にわたる注意を全く黙殺する態度は、穏当を欠くものといわねばならない。
二 不就労について、土屋の半専従時代および右協定失効後の勤務状況は前記第五、二、4乃至6認定のとおり極めてルーズなものであつた。土屋は、同人に就労義務があつたとしても、組合業務のため離席せざるを得ず、その際は会社にその旨届出て了解を得ていたが、後、会社は同人の申請を大部分不許可とする様になつたと主張するが、前記第四、一、二、認定のとおり、会社が協定失効後従来の様なルーズな許可申請手続を改める様組合に強く要請したにもかかわらず、土屋の昭和三九年一〇月以降の申請の大部分は、前記第五、三、認定のとおりであつたのであるから会社がこれらを不許可としたのも止むを得ない措置であつたと云わざるをを得ない。又専従協定が成立しなかつたのも、前記第三、三、3認定のとおりであつて、会社にのみ全面的な責任を認めることはできないのであるから、その新協定成立を当然の前提とするが如き、同人の勤務振りは直ちに正当化することはできない。
三 同人の勤怠状況が右のとおりである以上、たとえ同人が前記第五、二、7、認定の如く、右専従協定交渉決裂後数日して会社に対し、就労の意思表示をなしたとしても、会社が職場秩序を維持する必要から同人を懲戒解雇したことには理由があると認めざるを得ない。
四 しかして同人の右懲戒解雇につき、不当労働行為および解雇権乱用と認めるに足りる疎明はない。
第一〇申請人玉田和男ら一七名に対する解雇
一 会社が経営事情の悪化により経営合理化に踏み切らざるを得なくなり、以後合理化実施に当り、組合と一〇回にわたり団体交渉をもつたが、遂に円満な話し合いによる解決ができず、玉田ら一七名を解雇するに至つたいきさつは、前記第六、第七、一、認定のとおりである。
二 右認定の事実に照らすと、会社が本件合理化に当り、残留人員を経済計算上から八〇〇人とせざるを得なかつたことは一応首肯されるとしても、この様な不幸な経営状態に陥入つた場合の会社の採るべき態度としては、右合理化を円滑に進めるため、組合の理解と協力を求める誠意ある態度が要請されるものといわねばならないところ、前記認定のとおり、会社は組合との団体交渉開始前、既に残留人員を八〇〇人以下とすること、希望退職募集基準等を決定し、右募集基準にそつて従業員の勤怠調査(一〇日以上の欠勤者のチェック)もなし、合理化への方針も一応確立していたにも拘らず、団交の当初においては、組合に対し八〇〇人以下という人数も確示せずにあいまいにし、右確定していた退職募集基準にしても、昭和四一年二月一二日の第五回団交に至つてはじめてその具体案を組合に提示するといつた様に、会社が当初から組合と率直に協議するというより、単に形式的に団交をし、組合の出方をうかがうといつた態度は、たとえ組合或は組合幹部の従来の態度に前認定第二、二、1、5、第四、二、第五、二、4、5、6、第五、三、第五、四、2、の如く、会社の不信を招く点があつたとしても、やはり誠意ある態度とは認められない。
三 会社は同年二月一六日の第七回団体交渉で、常識的にみても最も妥当であり、問題も少ないと思われる外注作業員の解約という方針をとりやめることになつたが、それは組合が会社の再建案を終始拒否し続けていたし、単に引き延し作戦に終始し、何ら現実的な対策を示すことなく徒過したためであると主張する。<疎明>によれば、組合は二月二日、委員会を開きストライキによつて会社再建案に反対する方針を決議し二月八日の組合報には下請の首切りそれ自体に反対するとともに右首切りが組合員の生活権利に重大な影響を及ぼすものとして反対する旨の記載があるけれども、一般に企業の合理化に当つては、組合が団体交渉に際し、労使対等の立場を維持するため、スト権を樹立しておくことはあり得ることであり、而も本件においては、団交中は勿論その後もストライキを行なつた事実はないのであり、又合理化即解雇につながるものとして組合が合理化に反対し、更に下請作業員の首切りに対しても、同じ労働者の生活を擁護するという労働組合としての立場上、一応反対せざるを得ないということは、いずれも忖度しうるところである。それ故右事実をとらえ、組合が会社再建への理解と協力を欠いたものということはできず、又組合が故意に引き延し作戦をとつたことを認めるに足りる疎明はない。
四 なお下請の解約中止につき、会社は右下請部門の定着性の悪い実績に照らし、同部門への社員の配置転換は、組合の前記態度からみて不可能であると判断したからであると主張する。しかし右方針変更以前の団体交渉において、会社が組合に対し、下請のいかなる部門に、何人位の配転を予定しているかといつた具体的な計画も、その他配転の一応の基準らしきものも提案していなかつたのであるから、いわば抽象的な配転反対という組合の態度のみからこの問題について協議を尽すことなく、直ちに、下請部門への社員の配転は不可能であるとした会社の右判断は、早計のそしりを免れない。
五 前認定のとおり、二〇〇人の希望退職者が出た昭和四一年二月二三日の時点で、残留予定人員八〇〇人を超えた余剰人員は、二二人と確定した。さすれば、会社としては、当初から会社が主張していた様に真に下請作業員を解約し、社員の減員を妨ぐという最も合理的な立場をとつていたものとすれば、前記認定のとおり、この時点で下請契約の更改中止に未だ充分日時を残しており、且つ右更改中止は容易であつたのであるから、右二二人分(最終的には本件申請人ら一七人)に相当する下請の整理という当初の大方針を再検討し、再採用する余地があり、及それが最も妥当であつたと解される。しかるに会社は右の点につき一顧も与えるところなく、前記認定のとおり、第五回団体交渉で組合に具体的に提示した希望退職募集基準七項目のうち二項目を変更し、右余剰人員二二人はこれに該当するとして、再度応募を求めて退職を勧告し、そのうち五人の希望退職者が追加発生した同年二月二八日に、残つた一七人につき、本件解雇に及んだもので、この様な会社の態度は、前記各認定事実と綜合して考察すれば、到底是認し難いところである。
六 会社は本件解雇につき設定した基準には合理性があると主張するが、前項のとおり右基準は組合との話合いもなく、他の基準項目に該当する者の有無につていも不明確のまま余剰人員二二人という枠を念頭に事後に設定されたものと推認されるから、右基準の設定に基いなてされた解雇それ自体、既に妥当性、合理性を欠くものと認められ、右基準の内容が合理性を有するか否かを論ずるまでもなく会社の主張は失当である。之を要するに玉田ら一七人に対する本件解雇は、すべてその合理性を有しないものと解するのを相当とする。
七 申請人玉田ら一七人に対する本件解雇が前記のとおり合理性を有しない以上、会社の右申請人らに対する解雇の意思表示は、正当な解雇理由を欠くも飯として無効であるから、右申請人らは、依然として会社の従業員とし飯の地位にあるものと認められるところ、右申請人らのうち申請人玉田和男、同山田忠、同磯部勝英、同高木周治、同伊藤征一、同室伏喜美夫、同山岸正幸の七人については、既に緊急命令により会社の職場に復帰し、同人らが受けるべき賃金、その他の諸給与相当額の支払を受けているのであるから、右申請人ら七人の本件地位保全の仮処分申請は、仮処分制度の趣旨に照らし、その保全の必要性を欠くものとして却下を免れないものと云うべきである。その余の申請人山田節彦、同石川曠、同高橋衛、同梅津実、同寺井満夫、同殿畑建治、同杵渕秀夫、同千葉緑朗、同高野竹雄、同後藤堅吾の一〇人が、本件解雇以降昭和四七年一〇月末日までに受ける筈であつた賃金、その他の諸給与相当額の各合計は、<疎明>を綜合すれば、別紙賃金目録第三欄記載のとおりと認めるのが相当である(右申請人らの請求する各一ケ月宛の通勤手当については通勤交通費規程によれば割引率の高い六ケ月乃至三ケ月の定期の額を基礎として算出すべきこととなるが、仮処分の趣旨にのつとり、計算上のはんざつを避け、後記千葉緑朗を除く各人につき一率請求額の二割減として算出し、申請人千葉緑朗については、同人が昭和四六年一月以降現在まで病気療養中であるのを考慮し、同人の昭和四六年夏期以降の賞与については、前同様の趣旨で、請求額のいずれも二五%である金九四、一四〇円に、又昭和四七年四月以降の昇給額については、同様に請求昇給合計額六、九五〇円の六〇%として計算した金五八、八二〇円にいずれも減縮し、更に昭和四六年四月以降同四七年一〇月までの残業、休出交替勤務等手当合計金二一〇、八八九円及び昭和四六年二月以降同四七年一〇月までの通勤手当合計六六、一五〇円については、これを請求額より控除した。)。
しかして右申請人ら一〇人が、昭和四七年一一月一日以降毎月受け取るべき賃金等の額については前掲各疎明により、別紙賃金目録第四欄記載のとおり認めるのが相当である(右千葉を除く各人の通勤手当については、前同様一率にその請求額の二割減とし、申請人千葉緑朗については、前認定のとおり本給金五八、八二〇円と家族、住宅手当との合計金六六、三二〇円のみとなる)。
以上の各認定に反する疎明はいずれも採用しない。
一〇 会社は申請人殿畑建治、同後藤堅吾は、いずれも他に雇傭され収入を得ていると主張し、同人らが若干の期間アルバイトに従事したことは同人らの自認するところであるが、同人らはそれによつて得た収入はすべて組合に提供し斗争諸経費に充てたと主張し、同人らの具体的な実収入についてはこれを認めるに足りる疎明はない。
しかして<疎明>によれば前記申請人ら一〇名がいずれも経済的に困窮していることが窺われるので保全の必要性が認められる。
第一一申請人工藤敏明に対する解雇
一 工藤は、解雇理由の一原因となつた勤務是正制度なるものは、会社の強行実施したもので就業規則に牴触する無効なものであると主張するが、右勤務是正制度は、前記認定第八、二、2、のとおりの趣旨、目的、根拠に基づいて制度化されたものであり、何ら就業規則に牴触するものではなく、又同人は、欠勤は必ずしも怠惰によるものではなかつたと主張するが、右主張を裏づける疎明はなく、右各主張はいずれも理由がない。
二 その他本件解雇は不当労働行為乃至解雇権の乱用に当るとの主張については、これを認めるに足りる疎明はない。
三 前記認定第八、二の事実に照らせば、会社が工藤に対して、就業規則二〇条四号後段を適用してなした本件解雇の意思表示は、正当な理由に基くものとして適法なものと認めるのが相当である。
第一二よつて、申請人らのうち、申請人山田節彦、同石川曠、同高橋衛、同梅津実、同寺井満夫、同殿畑建治、同杵渕秀夫、同千葉緑朗、同高野竹雄、同後藤堅吾の申請は、主文掲記の限度で理由があるので、これを認容し、その余は失当として却下し、その余の申請人らの申請は、いずれも理由がないので却下することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条九二条を適用して主文のとおり判決する。
(中島恒 根本久 戸田初雄)
<編注1> 一 被申請人(以下会社という)は、表記のところに本店を、川崎市千鳥、同汐浜、都内大森に各工場を、大阪市等に営業所をもち、無水フタル酸及びタール製品、石油化学製品並びにそれらの関連製品の製造加工売買等を営む、資本金一七億九、八四七万二、五〇〇円の株式会社である。
二 申請人らは、会社の従業員であり、会社の従業員をもつて組織する合成化学産業労働組合連合川崎化成労働組合(以下組合という)に属しているものであるが、会社は、申請人土屋保につき、昭和四〇年一〇月一四以降、申請人工藤敏明につき、同四一年二月二二日以降、その余の申請人らにつき同月二八日以降いずれも、解雇したと称し申請人らとの間の雇用関係の存在を争い申請人らを従業員として取り扱わない。
三 申請人らは賃金を唯一の生計の資としているものであるところ、会社は前述の如く従業員として扱わず、賃金の支払を得られないため、申請人らの生活に著しい損害を蒙つている。もつとも申請人ら中、別紙賃金目録記載の申請人らを除くその余のの玉田和男、山田忠、高木周治、磯部勝英、伊藤政一、室伏喜美夫、山岸正幸の七名は、中央労働委員会の救済命令並びに東京地方裁判所の緊急命令により現在は職場に復帰し、賃金等につき仮払いを得たが、会社は未だ右七名については従業員としての地位を争つているので、従業員としての仮の地位を定める必要があり、その余の申請人らについては従業員としての仮の地位を定めるとともに、別紙賃金目録記載中第一欄記載の賃金等合計額(各解雇以後昭和四七年一〇月三一日までの会社より受くべかりし本給、手当等の合計であり、その算出根拠は疎甲一八九号証の一〇、同一九八号証の九参照。)及び昭和四七年一一月一日より本案判決確定まで毎月二五日限り同目録第二欄記載の毎月の賃金等(算出根拠は疎甲一八九号証の六、同一九八号証の六、八参照。)の仮払いを命ぜられる必要があるので本件仮処分申請に及んだ。
<編注2> (1) 会社・組合間における組合役員の「就業時間内における組合活動に関する協定」(以下「協定」という。)は、昭和三六年九月一日から三九年三月三一日まで四回の協定更新を行ない、その間三七年以降組合活動が活発化するにしたがい協定の時間枠および対象者が増えていつた。協定の内容、経過は次表のとおりである。
協定年月日
期間
時間枠
対象者
(A) 三六・九・一
三六・九・一~
三六・九・三〇
三六・一〇・一~
三七・三・三一
八三時間
五〇〇時間
三役
同上
(B) 三七・三・三一
三七・四・一~
三七・九・三〇
五〇〇時間
三役と渉外部長
但し、渉外部長は月五時間以内
(C) 三七・九・二〇
三七・一〇・一~
三八・三・三一
五〇〇時間
同上
(D) 三八・三・二九
三八・四・一~
三八・九・三〇
一〇〇〇時間
三役と渉外・情宣・組織各部長
(E) 三八・一一・一
三八・一〇・一~
三九・三・三一
一〇〇〇時間
執行委員長 午後専従
書記長 午前専従
三役と全執行委員
半専従者も一〇〇〇時間を利用しうる
<編注3> (3) 昭和三九年五月一四日、会社は、組合に協定失効後の措置として、以後、執行委員の就業時間内の組合活動は、組合からの事前申請により、個別に許可すると通告したが、組合は協定失効後も、従前の協定の趣旨に則り、組合業務の必要の範囲内で従前の手続きにより組合業務を行なわせていた。その後これについて会社からは何らの注意もなかつたが、七月一八日の事務折衝において、はじめて、会社は、組合が申請した土屋の七月一七日から同月三一日までの組合業務のための欠勤は、長期にわたるので認められないといつた。そして、一〇月八日の労働小連絡会(会社側労務担当部長ほか数名、組合側土屋委員長ほか数名が出席して協議している。以下「小連」という。)で、会社が一〇月からは許可制を貫くと発表した。なお、この間会社は、組合に対し六月一日から完全専従制へ移行されたい旨を伝え、小連において検討が続けられたが、話合いはつかなかつた。
(4) つづいて、一〇月一五日の小連において、会社は、専従者は委員長ら執行委員の中から三名までとし、任期は一年とする。就業規則は協定に特段の定めのある事項および業務を前提とする事項を除きすべて適用する。専従者以外の組合役員の就業時間内の組合活動は認めない等を内容とする案を提示した。なお、この会社案による協定が成立するまでは、就業時間内の組合活動は三役に限つて必要に応じて許可し、その他の役員については認めないと言明した。これに対し組合は、専従者に関する協定の締結には積極的に努力するが、それまでの暫定措置として、三役以外の執行委員についても就業時間内組合活動を認めることを要請し、また、組合は、専従者の数について財政上一名にとどめたいという理由で会社案の再検討を求めるとともに専従者を正式におく場合は土屋としたい旨を告げた。しかし、会社は、一〇月一五日以後、三役以外の役員についての時間内組合活動の申請をすべて不許可とし、三役の申請についても土屋に関するものはその大部分を不許可とするようになつた。また、三役の申請について、所属長が承認を与えた分もたまたまその「写」が人事部に届くのが遅れると従来からの慣行に反し、「事後申請不許可」とするようになつた。
(5) その後、昭和四〇年二月四日にいたつて、執行委員長の組合専従、就業時間内組合活動の時間枠等について労使の意見はほぼ一致したが、この協定の成文化に際し、会社は、「専従者といえども勤務に関する条項を除き一般に就業規則の拘束を受けるべきものであるから、その点も協定化すべきである」と主張したことなどをめぐつて対立し、交渉は九月三〇日に決裂した。
<編注4> (1) 就業時間内組合活動の申請手続きについては、昭和三六年九月、前表(A)の協定が成立して以来三九年三月末で前表(E)の協定が協定が失効するまで、①原則として事前に承認を得ること、②所属長を通じ部・工場長の許可を得ること、③原則として委員長の許可を得て申請書(正)を部・工場長あて、申請書(写)を人事部長あて提出すること、などの手続きにより行なわれていた。ただし、緊急の場合には、本人が直接所属長に口頭または電話で連絡することによつて承認を得ていた。組合は、この申請に対し所属長から不許可とされたこともなく、また、申請の仕方について注意を受けたこともなかつた。なお、所属長から業務上支障があるとされた場合には、組合業務にはつかず就労していた。申請事由については申請書に具体的に記載して提出するのが例であり、たまたま「組合業務」と記載してあつた場合には、会社から申請者に対し、具体的理由の説明を求めていた。